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なぜ薬理学を学び、教えるのか
2026-05-23
オススメ重要
なぜ薬理学を学び、教えるのか 柳澤輝行 (2002年)
■はじめに
9月11日夕食直後、10時のテレビが「こんな映像がニューヨークから入ってきました」と。画面に目をやると、現在ジョンズ・ホプキンス大学にいる親友が20年前現地で「心から愛し誇りにしている美しい建物」と紹介してくれた世界貿易センタービルが傷つき煙を上げていました。まもなく右手に模型のような飛行機の陰が見えた瞬間、残ったもう一棟のビルから炎とともに破片が左手に飛びだしました。「テロだ!」と叫んでしまいました。計画性、悪意を確信しました。画面から目が離せずにテレビの前に釘付けになりました。時間がたっても鎮火しないので、「スプリンクラーが効かない火災が内部で起きている。鉄骨が柔らかくなってビルがつぶれるよ」と予言し、その通りになりました。
科学者ならば、事故の確率、鉄の軟化・溶解温度、建物の重量、その他計数化できるものを、桁を間違えずに数え上げ、重要度の重み付けをし、それらを統合して考えると、テロの瞬時の確信やビル崩壊も予想できるものなのです。不謹慎かもしれませんが、科学の基礎や原理を踏まえて考えれば当然であり、何を考えどう判断し行動するにしても基礎科学は役立ち、古くならない例といえます。
■専門基礎教育の特徴
薬理学は毒科学・臨床薬理学も含み、薬物治療や薬物開発の中心的役割を負うものです。ここでは教科内容や学問体系という意味でなく、医学教育の基礎としての特徴を考えてみましょう。基礎には大きく二つの特徴があります。一つの特徴はそれぞれの学芸の方法論・用語についてどうしてそうなのか、原理や基礎に従うとどうなるのかを説明してくれるものです。もう一つの特徴はその分野を知らない人や初学者が持っている憶測・傾向や一般常識とは決定的に違い、知らないことによってプロとアマの重大な差が出てしまうということです。多くの学生が専門教育の基礎というのはそのくらい大きく違うということを知らな過ぎます。一般常識とは違うという性質によって、数少ないにもかかわらず基本や原理の習得に意外に時間がかかり、しかも精神力を要求します。一たび基礎を体得すると、目の付け所がプロらしくなりそれ以降の知識をたやすく獲得でき、知識とエッセンスの両方を駆使して臨床や研究が出来るようになるのです。一見難しくて根気のいる体系的な基礎教育は、一人一人の学生を型にはめようとしているものではなく、各人に基礎練習によりむしろ精神のコワバリを解放してやろうとしているのです。普遍的な共通の方法はすべての学生を似かよったものにするのではなくて、反対に彼らをなお一層違ったものとするのが目的なのです。だからこそ、教える者には「基礎医学の中で薬理学を学ぶことがすべての学生にとってよいものなのである」と主張する覚悟が求められていると考えます。薬理学を教えて初めて本当に薬理学を学んだことになり、同好の士が多いことはその教育が成功していることを示し、またそれについて書くことでさらにより深く学ぶことができます。このように、教科書を書くことは、学問の同志をつのり、ミッションを伝える営みともいえます。
■基礎は入門とは違う
ところで、基礎は初歩や入門でやさしいものとよく誤解され混同されますが、基礎と初歩とは別のものです。最初に学ぶべきことがやさしいとは限らないのです。基礎とはやさしい入門ではなく大原則やエッセンスで、知らないで一見自然に行動すると誤ってしまうというものなのです。本質や核心のイメージ形成とこうやればいいんだという情緒形成が必要なのです。楽器をさわったことのある人、スポーツに打ち込んだことのある人ならば、錬習により身体の柔軟さと的確さを鍛え上げ、そしてどんなにうまくなっても基礎の大切さに同意してくれるものと思います。また、初めてやる人が誰にも教わらずに試行錯誤しながら覚えるよりも、最初は先生に教えてもらい、よい手引書をこう使うとよいと導いてもらった方が速く習得できます。試行錯誤の時間が節約できるとともに、間違った癖をつけないようにすることも速い上達につながります。第二の天性といわれる習慣において、悪い癖をつけるためにかかった時間と、それを取り去るためにかかる時間との比はだいたい1対2、時には1対3といわれています。
■センスを磨く記憶
科学・社会現象に関して桁を間違えないくらいのセンスが必要なことは論を待たないのですが、このごろの教育では、科学技術の進歩のめざましさに目がくらみ、教育の目標設定や効率のみが重視されることはないでしょうか。学生も教師もセンスを磨くための意志的な記憶作業をなおざりにしている傾向はないのでしょうか。たとえば、以前は習ったものは覚えようというのが原則でした。このごろは記憶しなくともよいということになっています。頭の中身をコンピュータに任せてもよいとでもいうのでしょうか。一方、ひとたび記憶しようと志すと、その時から非常な意志的努力がいるのです。試験は意志の訓練という要素が大きいのです。知識を問うのではなく、どれだけ精神の訓練をしてきているのかを問うという性格を忘れてはならないと考えます。さらに創造の働きは、脳全体、体全体で精神統一下において行なわれるので、心を散らしたままなどではできるはずもありません。ですので、意志の教育と訓練が欠けていると、創造性の追求も種々の変化に的確に対応することもできなくなるわけです。
■最後に
事件のあと、「美しい建物」といっていた友人からのメールに、「一生忘れられない。人生観が変わった。」とありました。だが、逆に変えてはいけないものはないのでしょうか。この社会を成り立たせているのは、それぞれの場で誠実に務めをはたしている人々です。テロリズムは怠け者の思想と行動です。社会にショックを与えれば、一気に何かが変わると考えているからです。社会の中で生き、日々の営みを愛し、義務を誠実につとめ、周りに幸せをもたらし、社会を向上させて次の世代に手渡して行こうという意志とはまったく反対の行動なのです。ですから、テロリストの卑劣さを見抜く精神、すべての人のための、かつまた、社会に貢献する教育と教養が大切と考えます。薬理学も例外ではありません。学ぶこと教えることは精神の営みであることを忘れたくないものです。
科学者ならば、事故の確率、鉄の軟化・溶解温度、建物の重量、その他計数化できるものを、桁を間違えずに数え上げ、重要度の重み付けをし、それらを統合して考えると、テロの瞬時の確信やビル崩壊も予想できるものなのです。不謹慎かもしれませんが、科学の基礎や原理を踏まえて考えれば当然であり、何を考えどう判断し行動するにしても基礎科学は役立ち、古くならない例といえます。
■専門基礎教育の特徴
薬理学は毒科学・臨床薬理学も含み、薬物治療や薬物開発の中心的役割を負うものです。ここでは教科内容や学問体系という意味でなく、医学教育の基礎としての特徴を考えてみましょう。基礎には大きく二つの特徴があります。一つの特徴はそれぞれの学芸の方法論・用語についてどうしてそうなのか、原理や基礎に従うとどうなるのかを説明してくれるものです。もう一つの特徴はその分野を知らない人や初学者が持っている憶測・傾向や一般常識とは決定的に違い、知らないことによってプロとアマの重大な差が出てしまうということです。多くの学生が専門教育の基礎というのはそのくらい大きく違うということを知らな過ぎます。一般常識とは違うという性質によって、数少ないにもかかわらず基本や原理の習得に意外に時間がかかり、しかも精神力を要求します。一たび基礎を体得すると、目の付け所がプロらしくなりそれ以降の知識をたやすく獲得でき、知識とエッセンスの両方を駆使して臨床や研究が出来るようになるのです。一見難しくて根気のいる体系的な基礎教育は、一人一人の学生を型にはめようとしているものではなく、各人に基礎練習によりむしろ精神のコワバリを解放してやろうとしているのです。普遍的な共通の方法はすべての学生を似かよったものにするのではなくて、反対に彼らをなお一層違ったものとするのが目的なのです。だからこそ、教える者には「基礎医学の中で薬理学を学ぶことがすべての学生にとってよいものなのである」と主張する覚悟が求められていると考えます。薬理学を教えて初めて本当に薬理学を学んだことになり、同好の士が多いことはその教育が成功していることを示し、またそれについて書くことでさらにより深く学ぶことができます。このように、教科書を書くことは、学問の同志をつのり、ミッションを伝える営みともいえます。
■基礎は入門とは違う
ところで、基礎は初歩や入門でやさしいものとよく誤解され混同されますが、基礎と初歩とは別のものです。最初に学ぶべきことがやさしいとは限らないのです。基礎とはやさしい入門ではなく大原則やエッセンスで、知らないで一見自然に行動すると誤ってしまうというものなのです。本質や核心のイメージ形成とこうやればいいんだという情緒形成が必要なのです。楽器をさわったことのある人、スポーツに打ち込んだことのある人ならば、錬習により身体の柔軟さと的確さを鍛え上げ、そしてどんなにうまくなっても基礎の大切さに同意してくれるものと思います。また、初めてやる人が誰にも教わらずに試行錯誤しながら覚えるよりも、最初は先生に教えてもらい、よい手引書をこう使うとよいと導いてもらった方が速く習得できます。試行錯誤の時間が節約できるとともに、間違った癖をつけないようにすることも速い上達につながります。第二の天性といわれる習慣において、悪い癖をつけるためにかかった時間と、それを取り去るためにかかる時間との比はだいたい1対2、時には1対3といわれています。
■センスを磨く記憶
科学・社会現象に関して桁を間違えないくらいのセンスが必要なことは論を待たないのですが、このごろの教育では、科学技術の進歩のめざましさに目がくらみ、教育の目標設定や効率のみが重視されることはないでしょうか。学生も教師もセンスを磨くための意志的な記憶作業をなおざりにしている傾向はないのでしょうか。たとえば、以前は習ったものは覚えようというのが原則でした。このごろは記憶しなくともよいということになっています。頭の中身をコンピュータに任せてもよいとでもいうのでしょうか。一方、ひとたび記憶しようと志すと、その時から非常な意志的努力がいるのです。試験は意志の訓練という要素が大きいのです。知識を問うのではなく、どれだけ精神の訓練をしてきているのかを問うという性格を忘れてはならないと考えます。さらに創造の働きは、脳全体、体全体で精神統一下において行なわれるので、心を散らしたままなどではできるはずもありません。ですので、意志の教育と訓練が欠けていると、創造性の追求も種々の変化に的確に対応することもできなくなるわけです。
■最後に
事件のあと、「美しい建物」といっていた友人からのメールに、「一生忘れられない。人生観が変わった。」とありました。だが、逆に変えてはいけないものはないのでしょうか。この社会を成り立たせているのは、それぞれの場で誠実に務めをはたしている人々です。テロリズムは怠け者の思想と行動です。社会にショックを与えれば、一気に何かが変わると考えているからです。社会の中で生き、日々の営みを愛し、義務を誠実につとめ、周りに幸せをもたらし、社会を向上させて次の世代に手渡して行こうという意志とはまったく反対の行動なのです。ですから、テロリストの卑劣さを見抜く精神、すべての人のための、かつまた、社会に貢献する教育と教養が大切と考えます。薬理学も例外ではありません。学ぶこと教えることは精神の営みであることを忘れたくないものです。
日本薬理学会誌2002年8月巻頭言「アゴラ」120:71-72 (2002)
付録図
東北帝国大学医学部病理学実習室に掲げられた標語

